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大阪地方裁判所 昭和43年(わ)2851号 判決 1975年1月20日

主文

被告人らはいずれも無罪。

理由

本件公訴事実は別紙一の第一ないし第八に記載のとおりであるが、右のうち第一及び第四ないし第七の各公訴事実についてはいずれも犯罪の証明がなく、第二、第三及び第八の各公訴事実はいずれも罪とならないので、被告人全員に対し無罪の言渡をすることとし、以下その理由を述べる。(なお以下の理由中で当裁判所の認定した事実は、本件において取調べた全ての証拠を比較検討し、その証拠価値を慎重に吟味したうえ総合的に判断して行なったものであるが、それぞれの箇所ではそのうちの主なものを掲げるにとどめた。証拠は略称をもって表示し、その表示方法は別紙二の証拠関係明細書のとおりである。)

一、本件に至る争議経過の概略

≪証拠省略≫によれば、被告人小林、同寺崎は全国自動車交通労働組合大阪地方連合会(以下地連と略称する)の執行委員で、被告人小林は地連南西地区協議会事務局長、被告人寺崎は同副議長の地位にあり、その他の被告人らはタクシー及び観光バスによる旅客運送事業を営む商都交通株式会社のタクシー運転手であり、主として同社のタクシー運転手で組織する全自交大阪地連商都交通労働組合(以下単に組合というときはこの組合を指す)の組合員で、本件当時被告人竹弘はその副執行委員長、被告人石元は書記長、被告人金、同大井、同畑中は執行委員の地位にあったものである。

商都交通労働組合は、昭和三一年秋ごろ結成され、当時は上部団体に加盟せず、いわゆる中立組合であったが、昭和三七年二月の定期大会で切田明、石元敏男らが執行委員に選出されたころから、組合員の間に次第に全自交加盟の気運が強まり、昭和三九年二月の定期大会では、結成以来執行委員長を務めてきた木本重徳が同社観光部の課長に就任して組合を離れ、かわって切田明が執行委員長に選出され、翌四〇年二月の定期大会において全自交加盟が決定された。一方この大会の直前ごろ、木本重徳の指導により、それまで未組織であった観光部の従業員によって観光部従業員親睦会が、同年三月にはこれを母体に商都交通観光バス労働組合が結成され、同盟全国交通運輸労働組合総連合に加盟した。

会社は組合が全自交に加盟後、木本重徳をタクシー部の労務課長に任命し、同人をして労務、組合対策に当らせたが、同人が執行委員長をしていた当時のいわゆる労使協調型の組合から闘う組合に変身しつつあった組合を相手に、同人の経験は充分役立たず、所期の成果をあげることができなかったため、昭和四一年九月下旬ごろ、かつて全自交神奈川地連横浜相互自動車労働組合で八年間組合役員を務めた佐藤岩夫を迎えて営業部次長に任命し、同人に労務、組合対策を一任した。同人は就任当初から、あからさまな組合敵視、弾圧方針を広言し、同人の指導に従いきれなかった木本重徳は同年一〇月末解雇された。

同年一〇月一〇日組合が会社に対し、新労働協約の締結、退職金規定の改正等の諸要求を掲げ、団体交渉の開催を要求したところ、会社は、同月一三日の予備交渉の席上突然団体交渉に出席する交渉人員を双方五名に制限することを要求し、組合側がこれを拒否したところ、同月一五日付の文書で「交渉人員を五名に制限するのでなければ、団体交渉には応じられない」旨通告してきた。そして同月二〇日交渉人員問題について再度開かれた予備交渉で、会社は交渉人員の制限を八名まで譲歩したが、組合側はあくまで執行委員一二名全員の出席を主張し、交渉はもの別れに終った。団体交渉における組合側交渉委員の数については、昭和四〇年一〇月末で有効期限がきれ、失効していた労働協約にも明確な規定はなく、協約失効前は、執行委員長、同副委員長、書記長の組合三役のほか執行委員一、二名がこれに出席していたが、協約失効後は、昭和四一年一〇月までに一七、八回行なわれた団体交渉において常に当時の執行委員九名全員が出席し、会社も異議なくこれに応じていた。そこで組合では、会社が団体交渉の交渉人員を制限し、組合がこれに応じないことを理由に団体交渉を拒否するのは、正当な理由がなく団体交渉を拒否するものであり、不当労働行為に当るとして、昭和四一年一〇月末ごろ地方労働委員会に救済の申立をした。その後も会社の団体交渉拒否の姿勢に変化はなく、組合では同年一一月中旬全自交の統一要求である一人当り六万五、〇〇〇円の年末一時金要求を会社に提出したが、この問題についても会社の態度に変りはなかった。会社は同年一二月三日になって、地労委の勧告に従い、交渉人員問題を一時棚上げして、年末一時金問題について団体交渉を開いたが、席上会社側交渉委員として出席した佐藤岩夫は、「組合が争議行為をやめ、執行部を入れ替えてこなければ回答はできない」として、年末一時金について具体的な回答をせず、交渉は決裂した。当時地連傘下の他の組合では、ほとんどの組合が一人当り五万二、〇〇〇円から五万三、〇〇〇円の線ですでに妥結していたが、商都交通では右のような会社の態度から容易に解決の見込みはなく、交渉は越年するおそれがでてきた。そのため組合では同月一〇日地連から一、六〇〇万円の融資を受け、越年資金として各組合員に、前年度年末一時金実績の七〇パーセントを基準に一人当り約四万円を貸しつけることを決定し、同日ころこれを会社構内に掲示して発表したところ、同月一二日になって会社側から申入れがあり、再度一時金問題について団体交渉が開かれるに至った。しかしながら、ここにおいても会社側は、「会社の案で解決してほしい」と言うだけで具体的な金額を示さなかったため、組合側が交渉を打ち切ったところ、その間に会社は構内に掲示を出し、「いつでも支給する。但し非組合員に限る」として、全従業員の個人別年末一時金支給額一覧表を発表していた。ちなみに当時タクシー部従業員のうち非組合員は職制を除けば二・三名にすぎず、その一覧表の内容も高低の差が著しく大きく組合としてはとうていそのまま認めることのできないものであった。またそのころ、会社は職務手当のつく指導員、班長、副班長を増員する一方、組合活動家をこれから解任し、あるいは、同月九日から一一日ごろにかけて、組合員の家庭などに、「今の組合執行部では会社は年末一時金を出さないので、執行部に抗議するように」などと組合執行部を誹謗する内容の手紙が配られたりした。会社側のこのようなあからさまな組合切崩し工作が次第に効を奏し、同月二一日には谷口栄一ら二三名が組合を脱退し、後に第二組合の母体となった職場刷新準備会なるものを発足させ、意識的に組合内に残った指導的同調者と呼応して内外から組合批判を行ない、同年末までに合計約三〇名の脱退者を見るに至った。刷新準備会と会社との関係は必ずしも明白とまではいえないが谷口証言には、「刷新準備会のことで刷新準備会の中心人物であった中西正雄と佐藤岩夫らとの間に接触がなかったとはいえない」、山口証言には「同年一二月か翌年一月ごろ、刷新準備会と佐藤岩夫、横山邦雄ら会社側との間で、当面組合対策や第二組合の結成について再三話合いが行なわれた。刷新準備会では当時多数のビラを配布したりして相当の費用がかかったと思われるが、会費を出したことはない」との供述記載があることからすれば、刷新準備会の結成ならびにその存続維持について、会社が物心両面で相当の協力をしていたことは否定し難く、特に組合の側から見れば、会社と刷新準備会が協力して組合を切り崩そうとしていることは疑う余地のないものに見えた。このような情勢の中で組合は同年一二月二〇日闘争委員会を開いて、年末年始の闘争方針を協議し、翌二一日に団体交渉を開くよう会社に要求すること、同月二五日団結維持のため地域の支援労組員らの協力を得て餠つき大会を行なうこと(このことは同月一五日ごろ決定されていたのを確認)、社長が団体交渉に出席しないことについて抗議し、出席を要求するため同月二六日社長の自宅に赴き抗議行動を行なうこと、これらの経過を見て同月二七、二八の両日会社社屋にビラ張りを行なうことなどを決めた。おおよそ以上の事実が認められる。

二、公訴事実第一(被告人小林、同寺崎、同竹弘、同金、同大井、同表浦)について

≪証拠省略≫によれば、昭和四一年一二月二五日午前八時三〇分ごろから、多数の組合員や支援労組員らが集って、本社前車庫内の一角、組合事務所前で前記餠つき大会を始め、同日午後三時ごろには、地連の執行委員で当時商都交通労組の担当オルグであった被告人小林及び地連南西地協(議長切田明)の副議長として商都交通労組と関係の深かった被告人寺崎の両名も来てこれに参加した。午後四時前餠つきも終りに近づいたころ、被告人小林、同寺崎は組合事務所内にはいり、組合の切田委員長らと酒をくみかわしながら、今後の闘争のことなどについて話し合っていたところ、そこに会社の人事課長兼労務課長中山孝雄が「会社構内でのたき火について」「職場の安全と秩序を乱す不法行為について」「所定の場所以外での掲示について」などと題する組合執行委員長宛の文書三通を持参し、切田委員長に対し、餠つきの火を直ちに消すように命じた。切田は、日曜日の、しかも地区の支援者や上部団体の役員らも来て組合が団結維持のため餠つき大会をしているところに、このような文書を持って来るのは組合に対する挑発行為であるとして中山に抗議して文書の受取りを拒否し、後日話し合えば足りることであるから、とにかく今日は持ち帰るよう要求し、あくまで直ちに火を消すことを要求する中山と押し問答となった。間もなく両名は被告人小林に言われて組合事務所前の休憩所に出たが、そこでも数分間押し問答が続いた。しばらくして帰るため被告人小林とともに組合事務所を出た被告人寺崎が、まだそこで押し問答を続けていた中山に対し、顔をひっつけるようにして「いいかげんにしたらどうだ、さっさと帰れ」と怒鳴りつけたところ、中山は「お前らに関係ない、ひっこんでろ」と言いながら被告人寺崎の胸付近を突きとばしたため、同被告人はよろめいて後ろの壁にぶつかった。これを見た切田、被告人小林らが、被告人寺崎とともに「何をするんだ」と中山に詰め寄り、付近に居た被告人竹弘、同大井ら数名の組合員も加わって、中山に抗議するとともに、口々に「帰れ、帰れ」といいながら詰め寄り、後ずさりする中山を徐々に休憩所から車庫の方に押し出し、車庫内に出たあとも同じような状態がしばらく続いたが、間もなく会社事務所の方から佐藤岩夫が駆け出してきたため、中山を取りまいていた組合員らも佐藤の方に向い、中山を取りまく紛争は終り、中山はすぐ会社事務所に戻ったことが認められる。そして本件公訴事実は、中山をめぐる休憩所及び車庫内での右紛争の過程で、被告人らが十数名の組合員と共謀のうえ中山に暴行を加えて傷害を負わせたというのであるが、関係被告人らは、組合員による暴行の事実を強く否定しているところ、中山証言、佐藤証言には、ほぼ公訴事実に添う供述記載があるが、以下に述べる諸事情を総合すれば、右の両証言はたやすく信用できるものではない。すなわち、前掲各証拠によれば、被告人小林、同寺崎はいずれも地連の役員として商都交通労組の争議を指導する立場にあり、組合の幹部とともに、常々組合員に対して、会社側の挑発行為に乗って暴力的行動に出ることを厳しく戒め、職制に抗議や要求をする場合は、思わず手を出したりしないよう手を前か後ろに組んで行なうよう指導していたこと、一方会社職制は、佐藤岩夫の命により、常に小型写真機を携帯し、組合員と職制の間で紛争が起る都度その様子を写真に撮っていたことが認められ、これらの事情を考えれば、休憩所内はともかく、職制や非組合員の目にさらされている車庫内において、しかも組合員でない地区の支援者も居る前で、指導的立場にある同被告人らが、中山証言にあるように「叩き殺すぞ」と言って餠つきのきねを振り上げたり、えり首をつかんでゆさぶり、あるいは肩で突きかかり足で蹴るといったあからさまな暴力的行動に出たというのは、いささか不自然なことであり、また同証言にあらわれる被告人寺崎の行動は、当法廷における同被告人の態度からうかがわれる、主張すべきは主張するが多くを語らず、終始冷静で激することのない同被告人の性格とは極めて異質の感じをぬぐい難く、中山証言によれば、同人の検察官調書には、被告人小林が「叩き殺すぞ」と言ったとの点について記載がなく、足などをいつ蹴られたのかその時は気付かなかったと述べていることがうかがわれるにもかかわらず、証言時には、被告人小林にひざや足先で陰部や向うずねを蹴られ、その都度痛いと感じたのだけでも四・五回あると述べていること、また本件紛争は、中山が車庫内で危険であるから餠つき用の火を直ちに消せと執ように要求したことから発生したのであるが、当日組合がその場所で餠つき大会をすることは組合の掲示などで会社にも予めわかっていたことであり、しかも当日は午前八時三〇分ごろから始められていたのであるから、真実それほど危険なものであるなら、当然遅くとも当日の朝餠つき開始の時点で中止させるべきはずのものであるのに、午前中から出勤して事情を承知していながら夕方まで放置しておき、もう終るというころになって、格別緊急を要するものでもなく、しかもその内容が組合を刺激すること明らかな前記のような文書まで持参し、直ちに火を消せといって譲らず、しかも紛争が終るや、即刻右紛争で傷害を受けたとして警察に申告に及んでいることは、中山証言自体によって認められるところであり、このような同人の行動には、いかにも釈然としないものがあり、被告人らがこれを組合に対する挑発行為であると受け取るのも、あながち無理からぬことであること、また先に認定し、後に詳論するところから明らかなように、佐藤岩夫の労務政策の基本は手段を選ばずもっぱら組合を弱体化することにあり、中山はその佐藤岩夫の直接の指揮下にあって人事課長兼労務課長として労務、組合対策の第一線に立っていたものであることなどの諸事情を総合すれば、右中山証言は容易に信用し難く、また佐藤証言についても、同証言が後に詳述するように、全般的に極めて信用性の低いものであるばかりでなく、本件に関する証言に限ってみても、≪証拠省略≫によれば、中山が車庫内に出たあと、間もなく、休憩所入口から約五〇メートル離れた会社事務所から佐藤岩夫が駆け出して来たのであるが、途中の車庫中央付近で被告人金、同表浦ら組合員に取り囲まれたことが認められ、佐藤自身の証言によっても、自分が取り囲まれてからは、自分のことで精一杯だったというのであるから、同人が紛争を見ていたのは、せいぜい三、四〇メートルの距離を走りながらの間ということになり、しかも同証言によれば、その時二〇名位の組合員が中山を取り囲んでいたというのである。これらのことに加えて、そこが、時間的、場所的に考えて決して明るくはなかったと考えられること、三年以上も前の事件についての証言であることなどを考え併わせれば、その描写はあまりにも詳細かつ具体的にすぎ、かえって信用し難いものがある。

また谷口証言には、「中山が事務所から押し戻されるような感じで出て来た。五、六人ないし七、八人の組合員に取り囲まれていた。その中に被告人小林、同寺崎、同竹弘、同大井らのほか被告人金、同表浦もいた。寺崎がきねを振り上げた、誰かが、中山の胸倉をつかんだ」との供述記載があるが、同証言は、事件後約六年を経過した後のものであり、しかも同証言によれば、当時同種の紛争は日常茶飯のことであり、別に珍らしくもなかったので、特に注意して見ていたわけでもなく、車の中で弁当を食べながら、「またやってるな」ぐらいの気持で見ていたのにすぎず、また同人は本件紛争の直前の昭和四一年一二月二一日二三名の最初に組合を脱退して刷新準備会に参加した者で、翌四二年四月には、刷新準備会員の乗務する車に組合のステッカーを張られたりしたことから、組合に報復するため、野中こと朴周用ら刷新準備会員とともに、生野の組合事務所を襲撃して内部を荒らし、廃油をかけて放火しようとしたこともあり、証言時においても、第五五回公判での証言時には組合は統一されていたが、統一に反対の立場をとっており、第五七回公判での証言時は、その直前再分裂した第二組合の教宣部長を務めているなど、組合に対する強い反感、対立感情を抱いて、反組合グループの先頭に立っていたもので、その証言の中で当時居るはずのない中本重幸が居たと述べていることにも見られるように、他の紛争と混同し、あるいは事実を誇張、わい曲している疑いをぬぐいきれず、これまた容易には信用し離いものといわざるを得ない。

また医師森田邦夫作成の診断書には、右前胸部、右そけい部挫傷、両ひざ関節部挫傷及び皮下溢血により約一〇日間の通院加療を要すとあるが、≪証拠省略≫によれば、診断書にある疾病部位のうち外部所見の認められるのは、両ひざと胸部のみで、それも極く軽微なものであり、それ以外はもっぱら中山の訴えのみに基礎をおいた診断であり、前述のとおり中山証言が必ずしも信用し難いものであることからすれば、そもそもその傷の程度が真実右診断書等にいうほどのものであったのかどうかが疑問であるうえ、仮りに中山を取り囲んでいた組合員の中に、同人の胸部をことさら強く押したり、あるいは蹴ったりしたものがあったとしても、中山に対し抗議し、退去を要求するという点では、そこに居合せた被告人ら組合員の間で意思を共通にしていたであろうが、紛争の原因、経過に照らし、特段の事情も認められないのに、組合の指導に反するそのような脱線行為についてまで被告人らが意思相通じていたものとは考えられず、被告人らが直接暴行を加えたことが認められない以上被告人らに罪責を問うことはできない。

結局本件の全証拠によるも、被告人小林、同寺崎、同竹弘、同金、同大井、同表浦が、公訴事実第一に記載の所為に及んだことを認めるに足りない。

三、公訴事実第二(被告人石元、同大井、同畑中)及び第三(被告人金、同大井)について

昭和四一年一二月二五日までの経過はおおよそ前記認定のとおりであり、

≪証拠省略≫によれば、同月二一日組合の要求により年末一時金問題について団体交渉が開かれたが、会社の態度に変化はなく、交渉の進展は見られなかった。このように、団体交渉における一時金問題についての会社の回答は全く誠意のないものであり、その団体交渉にすら一度も出て来ない社長に抗議し、誠意ある団体交渉を要求するため、組合では同月二六日支援の労組員も含めて約四五〇名が奈良県下の社長宅に赴いたが、警察の厳重な警備もあって、社長に面会することすらできず、見るべき成果はあがらなかった(検察官は論告において、この時の組合の行動をとらえて、「組合が不法事犯に及んだ」と述べているが、現場で組合員らがどのような行動に出たかは証拠上明らかでなく、まして組合員が「不法事犯」に及んだことをうかがわせる証拠はない)。そこで、同日夜闘争委員の被告人石元、同大井、同畑中らが協議し、団結の維持強化を図るとともに、社長はじめ会社幹部の態度に抗議してその反省を促し、誠意ある団体交渉を要求するためには、先の闘争委員会で決定されたビラ張りを実行する以外に有効適切な手段はなくなったものと判断し、同被告人らは、翌二七日午前三時すぎごろから午前五時ごろまでの間に、勤務を終えて入庫した組合員十数名とともに、四ツ切大の新聞紙に「社長は団交に出よ」「年末一時金を早く出せ」「残業手当を早く支払え」「組合つぶしをやめろ」などと墨書または朱書したビラを、本社社屋の一部である一階営業部事務所の窓ガラス等に外側から九八枚、内側から四四枚、二階総務部事務室窓ガラスに外側から五九枚、東側階段の壁、階段横の扉、二階会計係に通ずる廊下の壁、扉及びその周辺に二三八枚、建物西側の外壁、玄関シャッター、その両側の外壁などに九九枚、合計五三八枚を洗車ブラシを用いて洗たくのりで張り付け(以上公訴事実第二)、同日会社側が一階営業部事務所の窓ガラス等に内外から張られた約一四三枚及び玄関シャッターに貼られた約二四枚のビラをはがしたところ、翌二八日午前三時すぎごろから再び被告人大井、同金の両名は他数名の組合員とともに前同様のビラを、玄関シャッターに三三枚、その両側の壁に九枚、営業部事務所の窓ガラス等に外側から一四一枚、内側から六七枚、合計二五〇枚を前同様の方法で張り付けた(公訴事実第三)ことが認められ、右の如く被告人らが本件建物の内外に、新聞紙等に墨汁やマジックインキでなぐり書きした多数のビラを直接壁面や窓ガラス等に密着するように張り付けたため、本件建物の外観が著しく汚損変客され、特に一階営業部事務室の窓ガラスは内外から、最上部を残してほぼ全面にビラを張られたため、窓ガラス本来の効用である採光、見通しを害され、事務所内から車庫を見通すことも出来なくなったことは否定することができず、被告人らの行為はいずれも一応建造物損壊罪の構成要件を充足するものということができる。

しかしながら当裁判所は、被告人らの右ビラ張り行為は、その動機、目的、態様等本件にあらわれた諸般の事情に照らし、社会的相当性の範囲内にある正当な争議行為として違法性を欠くものと判断し、以下その理由について述べる。

被告人らが、本件ビラ張りを実行するに至った経緯はすでに述べたとおりであるが、団体交渉の交渉人員として組合が執行委員一二名全員の出席を要求したことそれ自体は何ら不当ないし不合理な要求とはいえず、他に特段の事情も認められないので、交渉人員の制限に組合が応じないことは、団体交渉を拒否し得る正当な理由にあたらず、これを理由に会社が団体交渉を拒否したのは不当労働行為と認められて然るべきものである。その後会社は、地労委の勧告により年末一時金問題について、交渉人員の問題は一応棚上げして二回ないし三回の団体交渉を開いているが、そこには社長が一度も出席しないのみならず、交渉内容も前記のとおりで、交渉といえるほどのものであったかどうかすら疑わしく、誠意をもって交渉にあたったものとはとうてい認められない。実質的には年末一時金問題についても団体交渉は拒否されていたに等しい。団体交渉拒否については組合から地労委に救済の申立をしていたが、もとよりそれによって早急な解決を期待できるものではなかった。また後述するごとく、被告人ら組合員はタクシー運転手としての勤務の関係で、日常組合員が一堂に会して顔を会わせる機会は点呼時以外にないのであるが、当時会社は、点呼の場を組合が情宣活動に利用するのをきらい、組合の強い要求があり、会社側にとってもその方が便宜な合同点呼を行なわず、各部別の分散点呼を続けていたため、組合では争議中の最も重要な時期に、団結維持のための情宣活動も事実上制約されていたうえ、刷新準備会では組合のストライキ協力要請を拒否して就労していたばかりでなく、会社の了解のもとに、自動車運送事業等運輸規則に定められた点呼を行なわず、路上交替をしていたため、組合としては非組合員を説得してストライキに協力を求めることもできず、また歩合給率の高いタクシー運転手の組合としてはストライキにも限度があり、先に述べた社長宅への抗議行動も効を奏さず、地連の融資により最小限の越年資金を確保できたとはいうものの、それはあくまで借り入れ金であり、年末一時金という緊急切実な要求をかかえながら、会社に対し誠意ある団体交渉を要求し、これを実現するため有効適切な方法を他に見出すことができない状況に立ち至っていた。しかも、前記のごとく、会社は、年末一時金の個人別支給額一覧表を「非組合員に限りいつでも支給する」として構内に掲示して組合員に組合からの脱退を勧誘し、あるいは組合活動家を指導員、班長から解任し、加えて組合執行部を誹謗中傷する文書を組合員の家庭に送るなど(この文書を直接会社が作成発送したかどうかは証拠上必ずしも明らかではないが、前述の会社と刷新準備会との関係からみて、会社が無関係であるとはとうてい考えられない)、あからさまな不当労働行為ないし組合切崩工作をはかって組合の団結権を不法に侵害し、現実に一二月二一日以後相次いで脱退者が出るに及んで、組合としては、会社の団結権侵害に抗議するとともに、組合員に団結の維持強化を訴えるため強力な情宣活動を行なうことも焦眉の問題となっていたことが認められる。

以上詳しくみてきた経過に照らして考えれば、被告人らの本件ビラ張り行為は、組合にとって、残された有効かつ重要な争議戦術として、前記のような会社側の態度に対抗するため、必要やむを得ずとられた手段であって、その動機目的は正当で何ら非難すべきものを含んでいないということができる。そこで問題は、被告人らの行なったビラ張り行為の手段方法等その態様が、ことそこに至った争議の経過、そこにおける会社、組合双方の態度、それによって被るべき会社の損害等諸般の事情を総合的に対比考察し、それが社会的相当性の範囲を逸脱していないかどうかということにある。

被告人らの本件ビラ張り行為が、本件建物の外観を汚損し、窓ガラスの採光、見通しを害したものとして建造物損壊罪の構成要件を充足するものであることは、すでに述べたとおりであるが、その態様について今少し詳しくみてみると、前掲各証拠のほか≪証拠省略≫を総合すると、本件ビラ張りにより、会社側ではその除去作業にかなりの時間と労力を要し、壁面に張られたビラのあとは、除去作業のため一部壁の塗装がはげ落ちたり、ビラを張る時ののりやはがす時の汚水が染み込んだりして相当の汚損が残ったが、除去作業に時間を要したのは、佐藤岩夫の指示により、証拠保全のため相当数のビラを破らないよう一枚一枚丁寧にはがそうとしたこともその一因であり、そのことがなければ、ガラス部分や玄関のシャッターなどに張られたビラをはがすのはさほど困難であったとは考えられず、性質上除去後に何ら痕跡を残すものではなく、また採光、見通しの障害についても、営業部事務所以外は、数も少なく、その張り方からみてさして問題にするほどのものではなかったものと考えられ、除去後に汚損を残したのは、もっぱら内外の壁面であるが、玄関及び少数の外壁に張られたものを除けば、他はほとんど運転手の仮眠室に通ずる階段など一般外来者の目に触れない場所でもあり、会社の執務自体には全く支障がなく、だからこそ会社側も翌年四月組合と和解が成立し、争議が一応の収束を見るまでこれを放置していたこと、また闘争委員会では、ビラに記載すべき文言について予め組合員を指導し、実行に際しても不適切なものがないか、その文言を点検したうえ張付していること、そして現実に張られたものをみても、そこに書かれた文言は前記のごとく組合としては当然の要求ばかりであり、個人的な中傷や誹謗など不必要ないし不穏当な文言のものは全く見当らないこと、建造物損壊罪の構成要件に該当するとはいうものの、被告人らの行為は、一時的に窓ガラスの採光、見通しを害し、あるいは建物の外観を汚損変容したのみであって、もとより建物を物理的に破壊したものではなく、実行にあっても暴行脅迫等いささかの暴力的行為をも伴っていないことなどの事情が認められる。

以上詳細に述べた本件ビラ張り行為の手段、方法、結果等を、被告人らがそれをなすに至った動機、目的、争議経過等の諸事情に照らし総合的に考察し、なお、労働争議は労使双方の態度、力関係に対応して流動発展するものであって、争議行為の正当性いかんを判断するに当っては硬直した法解釈をもって臨むことは相当でなく、ことに、本件におけるがごとく、会社側に組合の団結権を侵害するかずかずの違法不当な行為がある場合においては、それがない場合にくらべて、労働者側における争議行為の正当性の範囲をある程度拡張して認めるのでなければ、正義衡平の法理念に反することをも考慮に入れるならば、本件程度のビラ張り行為をもってしては未だ社会的相当性の範囲を逸脱したものとは言えず、正当な争議行為の範囲内にあるものとして違法性を欠き、労働組合法第一条第二項本文、刑法第三五条により罪とならないものと言うべきである。

四、公訴事実第四の一(被告人畑中、同滝澤、同表浦、同大元)、二(被告人畑中、同滝澤、同表浦、同佐藤)について

≪証拠省略≫によれば、本社に所属する運転手の点呼は、従来本社前の車庫において各部合同で行なわれていたが、昭和四一年一〇月二六日以後車庫の有蓋化工事のため場所がなくなることを理由に各部別に分れていわゆる分散点呼が行なわれることになった。当時会社のタクシー運転手の勤務型態は、一昼夜交替の隔日勤務であり、仕事の性質上組合員が一堂に会することができるのは、点呼時だけであったため、全自交に加盟後組合では、会社が正規の始業時より一〇分早く午前七時五〇分から点呼を始めているのを黙認するかわり、会社側の点呼終了後引き続いて一〇分程度組合執行部から一般組合員に対し各種の報告等をする場としてこれを利用しており、会社側も特にこれに異議を差しはさむことはなかった。また会社側にとっても合同点呼であれば点呼者が一人ですみ、従業員に対する注意、指導等も統一的に行なえるなどの利点があり、点呼を担当する職制自身点呼は分散点呼より合同点呼の方が適切であると考えていた。ところが、車庫の有蓋化工事は約一ヶ月で完成したにもかかわらず、会社は点呼の場が組合の情宣活動に利用されることをきらって合同点呼に戻さず、分散点呼を続けた。前記のとおり当時会社は団体交渉を拒否していたため、組合としてはこの問題について会社と正規に話し合う場もなく、分散点呼の際など機会ある毎に合同点呼に戻すよう要求を繰り返していたが、会社側はこれを無視し続け、容易に組合の要求を受けいれる気配はなかった。(検察官は、「昭和四二年一月二四日の朝突然組合が合同点呼を要求した」と主張し、佐藤岩夫証言の中にはこれに添う供述記載があるが、右佐藤証言は≪証拠省略≫に照らしてとうてい信用し難い。ちなみに検察官自身、右主張とは明らかに矛盾するのであるが、冒頭陳述においても、論告においても、前年末に行なわれた前記ビラ張り行為に関し、組合員らによって張られたビラの中に「合同点呼をせよ」という文言のものがあったと指摘しているのである)。そこで組合では同年一月二二日石元敏男、被告人滝澤、同畑中ら闘争委員が協議し、同月二四日会社に対し文書で合同点呼を要求するとともに、同日以後点呼時間に有蓋化工事の終った車庫に集合して合同点呼を受ける態勢をとってその実施を要求することを決定した。一月二四日午前七時すぎごろ、被告人滝澤が責任者となり、会社に対する要求文書を営業課長横山邦雄に手渡すとともに、同課長に対し、組合員は合同点呼を受ける態勢をとるから合同点呼を行なうよう要求し、組合員にも順次その旨連絡し、車庫の片隅に置いてあった点呼台を車庫出入口中央付近に持ち出し、午前七時五〇分ごろには四〇名近くの組合員らがそこに集った。そのころ、これを知った佐藤岩夫の指示により、営業係長青山正雄、同南憲治、続いて横山課長らが「会社の方針に従い、所定の場所で各部別の点呼を受けるよう」命ずるためそこに来た。組合員らは、被告人滝澤ら役員が中心となって、横山課長らに対し、合同点呼を要求し、「やらないならその理由をいえ」などと抗議していたところ、そこに佐藤岩夫が出て来たため、組合員らは同人を取り囲み、口々に「合同点呼をやれ」と要求し、被告人滝澤が同人に対し、そこに用意していた点呼台に押し上げるようにしながら合同点呼を行なうよう要求したが、佐藤はこれを振り払って「お前らの指図は受けない、点呼を受けないなら出庫させるわけにはいかん」と言って、車庫入口の鉄扉のところに行き、これを閉めようとした。被告人滝澤、同畑中、同表浦ら組合員はこれを阻止しようとして、佐藤が閉めようとする鉄扉を持って逆に引っぱったり、鉄扉と門柱の間に割り込んだり、佐藤が鉄扉の止め金をかけるとこれをはずしたりして、佐藤を中心にもみ合いのような形になったが、間もなく組合員の中から「閉めるなら閉めさせ」という声があって、組合員らが抵抗をやめ、佐藤は鉄扉を閉め、止め金をしてくぐり戸から外に出たことが認められ(以上公訴事実第四の一の関係)、また≪証拠省略≫によれば、佐藤岩夫が鉄扉の外に出たころ、非組合員の中本重幸が来て、被告人佐藤隆一のえり首をいきなり両手でつかんだため、驚いた被告人佐藤隆一も中本のえり首をつかみかえした。これを見た組合員らが急いで二人を引き離し、青山正雄係長も来て中本の腕を引っぱり、同人をその場から連れ出そうとしたが、中本はなおも被告人佐藤に向ってゆこうとしたため、組合員が数人がかりで中本の両腕をとり身動き出来ないようにしながら車のところに押しつけたりしたが、間もなく青山係長が中本をその場から引っぱり出した。そのもみ合いの中で中本が着ていたシャッが破れたり、腕時計のバンドが切れたりしたことが認められる(以上公訴事実第四の二関係)。

ところで、佐藤証言には、右の紛争に際し、被告人滝澤、同大元、同表浦が他の組合員と共同して、同人に対し、肩で背中をこづき、体当りをし、足で蹴るなどの暴行を加えた旨の供述記載があるが、同証人は、前記のとおり組合対策のため会社に雇われたものであり、すでに詳しくみてきた会社と組合との厳しい対立関係も、もっぱら同人の指導によって行なわれた不当労働行為、団結権侵害行為を含む同人の極端過激な労務政策によってもたらされたものであること、またそれだけに同人は終始組合員の非難攻撃の的になり、当時組合員に取り囲まれ、何かと追及されたり、抗議を受けることも多く、本件と同じような紛争状態に発展することも珍らしくなかったこと、会社職制として佐藤岩夫の指揮下にあった青山正雄、横山邦雄、あるいは反組合意識の強い刷新準備会の谷口栄一らの各証言によっても、「佐藤は極めて気性の激しい男で、組合員に押されたりして黙って引きさがることはなく、積極的にこれをはね返し、どちらが攻撃とも、防禦とも言いかねる、五の力で押されれば一〇の力で押し返す男である」ということであるにもかかわらず、同人の証言では、組合員から一方的に暴行を受け、防禦であれ、攻撃であれ、自分の方から組合員に暴力を加えたことは全くないかのように供述していること、更に中本証言によれば、佐藤は、組合対策のため中本以外にもいわゆる暴力団関係者を利用し、組合幹部との間に暴力沙汰をおこさせようとしていたことがうかがわれるが、このことからみても、同人の組合対策には、目的のために手段を選ばないといった面を否定し難いことなどの諸事情が認められ、これを総合すれば、同人の証言は、全般的に誇張、わい曲、虚偽を含む疑いが強く、加えて本件に関する供述をみてみても、例えば「鉄扉の止め金をかけようとして中腰になっている時、後ろから何人かに蹴られて前につんのめった。その時大元が右横から肩で下からこずり上げるように体当りをし、ひざでも蹴った。表浦が後ろからひざの後ろを蹴った」など三年以上も前の、しかも当時決して珍らしくもなかった紛争状態の中で、中腰になって下を向き、うしろから何人かに蹴られて前につんのめったりしている時のことにしては、その描写はあまりにも詳細かつ具体的にすぎ、とうてい信用することはできない。また被告人大元は本件について、当日佐藤岩夫が出て来た時は、すでにその現場に居なかった旨弁解しているのであるが、佐藤証言以外に右弁解を否定する証拠はなく、同被告人は、他の訴因については暴行の事実こそ否認しているが、積極的に抗議行動に参加していたことを強調しており、右弁解には、これを虚言だとして軽々しく排斥し難いものがある。

次に中本証言等について検討するに、中本証言には、「組合員が佐藤を押したり、突いたりした。双方興奮してつかみ合いになり、佐藤が殴られそうになった」との趣旨の供述記載があるが、同証言ならびに横山証言によれば、中本は、横山ならまず採用しないような一見して明らかなやくざ者で、佐藤岩夫の組合対策の一環として雇い入れられ、同人の依頼により、同人が組合対策に利用するための暴力団関係者を紹介したりしていた者であり、自ら「本件は警察に協力したものだ」と述べていることなどを考えれば、そもそも同人の人柄ないし立場自体からその証言の信用性は低いのみならず、証言内容も矛盾に満ち、具体性がなくたやすく信用できない。

また前掲各証拠によれば、点呼台付近で被告人滝澤が佐藤岩夫の手を握り、点呼台の方に行かせるように引っぱったり、あるいは車庫出入口の鉄扉のところのもみ合いの中で、そこにいた被告人らが多少佐藤の体を押したり、鉄扉に押しつけるような形になったことがあったかも知れないが、そのようなことがあったとしても、その経過目的等に照らし、その程度をもって不法な有形力の行使といい得るほどのものとはとうてい認め難く、またその際仮りに組合員の中に、ことさら必要以上に佐藤に突き当ったり、蹴ったりしたものがあったとしても、前記の如く組合では当時常々暴力の行使を厳に戒めており、本件に際しても互いに「手は出すな」と戒めあっていたことは佐藤自身供述しているところであって(佐藤は、「手は出すな」というのは「他の方法でやれ」という意味であると述べているが、何ら合理的な根拠はなく、曲解というほかない)、単に現場に居て共に抗議し、その行動を制止しようとしていただけで、これらの者と共謀関係にあったものと認めることはできない。

また公訴事実第四の二の関係の中本をめぐる紛争の最初に、中本と被告人佐藤が、胸倉をつかみ合うという場面のあったことは先に認定したとおりであるが、この点に関する「胸倉をつかまれ、つかみ返した」との中本証言は≪証拠省略≫等に照らして信用できず、いきなり胸倉をつかまれ、とっさに相手の胸倉をつかみ返した同被告人の行為が暴行というに値しないことは多く論ずるまでもないところである。更に≪証拠省略≫を総合すれば、右紛争の中で、中本と組合員の間に相当激しいもみ合いがあり、その間に中本が組合員から足や腰を蹴られたりしたことがうかがわれるのであるが、本件の被告人らが直接そのような行為に及んだと認めるに足る証拠はなく、右の各証拠ならびに武藤証言によれば、中本自身青山や組合員に制止されながらも、これを振り切ろうとして相当暴れていたことも充分うかがわれるのであって、右の中本証言、円山調書等にあらわれた同人の被害のうち、どこまでが、組合員がことさら加えた暴行によるものであるのかは明らかでなく、中本の腕をつかんだり、車に押しつけたりして中本の行動を制止していた者の行為がそれだけでは暴行に当らないことはいうまでもなく、その間に一部の者がことさら暴行を加えたとしても、自ら暴行を加えたことの認められない被告人らに共謀の責任を問い得ないことは先に述べたところと同様である。

結局本件公訴事実についても、被告人らが、佐藤岩夫、あるいは中本重幸に暴行ないし傷害を加えたと認めるに足る証拠はない。

五、公訴事実第五(被告人石元、同大井、同滝澤、同大元)について

≪証拠省略≫によれば、組合では、昭和四二年一月二四日以後毎朝点呼時間に一たん本社前車庫に集り、合同点呼の要求を続けていたが、同月三一日の朝も、車庫出入口付近に点呼台を置いて、約二〇名位の組合員がそこに集っていたところ、午前七時五〇分ごろ、佐藤岩夫の指示を受けた横山邦雄が来て、黙って点呼台を肩にかつぎ、本社営業部事務所の方に持ち去ろうとした。間もなく切田明、被告人大井、同石元がこれに気付き、横山を追いかけて営業部事務所横の修理工場入口付近で追いつき、被告人石元が同人から点呼台を取り返えした。そして被告人滝澤ら他の組合員も加わって横山に抗議していたところ、その様子を見ていた佐藤岩夫が、写真機を持って営業部事務所から出て来て、横山を取り囲んで抗議している組合員らを撮影した。これを知った被告人ら組合員は、すぐその方に向い、佐藤が更に写真機を向けて撮影しようとするのを妨害するとともに、口々にこれに抗議し、「合同点呼をしろ、合同点呼をしないならその理由を言え」などと言いながら同人に詰め寄った。佐藤も激しくこれに応酬し、詰め寄ってくる組合員を突きとばしたり、はねかえしたりしながら後退して事務所内にはいった。そのような状態は事務所内でも佐藤がカウンターの中にはいるまで続いたが、間もなく佐藤がカウンターの中にはいり自席に戻ったので、被告人ら組合員はカウンター越しに一しきり佐藤に抗議をして引きあげたこと、被告人石元、同大井、同滝澤は終始、佐藤が事務所内にはいってからは被告人大元も、佐藤に詰め寄って抗議する一団の中に居たことが認められる。

本件公訴事実は、佐藤をめぐる右紛争の中で被告人らが、そこに居た数人の組合員と共同して同人に暴行を加えたというのであり、佐藤証言にはほぼ完全に公訴事実に添う供述記載があり、横山証言には「佐藤を取り囲んでいた数名の組合員が腕を組んで体で佐藤を押すという行動をくりかえしていた」、中山証言には「切田と被告人石元が肩で佐藤を押していた」との供述記載があるが、これらの各証言は、いずれも以下に述べるところから、とうていそのまま信用することのできないものであり、他に被告人らが佐藤に暴行を加えたことを認めるに足る証拠はない。

すなわち、佐藤岩夫は当時しばしば組合員から同じような抗議行動を受けており、青山証言によれば、本件と全く同じような原因経過の紛争も本件以外に何度かあったことが認められ、三年以上も前の、しかも横山証言によれば「組合員が佐藤を取り囲んで抗議を始めたので、写真機を取りに自席に戻ったが、写真機を取り出す間もなく紛争は終った」というのであるから、紛争はごく短時間の出来ごとであったと認められるのであるが、それにしては、佐藤証言は、本件に関してもまたあまりにも詳細かつ具体的にすぎること、中山証言によれば、同人は修理工場入口付近での紛争を、すぐ近くで目撃していながら、さして気にも止めず、立ちどまることもなく通りすぎていること、横山証言によれば、同人は「当然組合員は教育を受けているものとみえ、腕を組んで体で押すということはあったが、手を振りあげて殴るというようなことは決してなかった。腕を組んで体で押すというのも、腕を組んで抗議をする、それが体に現われるという表現が適切だと思う。そういう状態で佐藤がじっとしているというようなことはなく、押してくるのを積極的にはねかえしたり、突きかえしたりしてもみ合いになっていた」との趣旨のことも述べているのであり、このことからしても、佐藤証言にあるような激しい暴行を被告人らが行なったというのは信じ難く、また先に見た佐藤の気性を考え合わせれば、横山証言あるいは中山証言にいう「体で押す」「肩で押す」というのも、被告人らが激しく抗議しながら詰め寄るのを、佐藤が突きかえし、はねかえすということで、押し合い、もみ合いのような形になっていたにすぎないとも考えられること、加えて佐藤証言、中山証言の信用性について公訴事実第一、第四の関係で述べたところなどを総合すれば、佐藤証言はとうてい信用し難く、≪証拠省略≫をもって被告人らの暴行を認定するには不充分である。

なお、本件紛争の中で被告人石元が佐藤に体当りしたことがあることは、同被告人の自認するところであるが、同被告人の供述によれば、佐藤に抗議するため同人の方に向って行ったところ、いきなり同人から両手で胸を突かれてよろけたので、すぐ体勢を立て直して同人に体当りをしたというのであり、佐藤がいきなり被告人石元の胸を突きとばしたとの供述は、すでにみてきた佐藤の気性、紛争時における行動等から充分考えられることであり、これを同被告人の虚言であると断ずべき根拠はなく、とすればこれに対しとっさに体勢を立て直し、体当りして反撃した程度の行為は、すでに詳しくみて来た諸事情を総合すれば、実質的違法性を有する可罰的行為であるとはとうてい言い難いこと、敢えて多言を費して論ずるまでもないところである。

六、公訴事実第六(被告人金、同大井)について

≪証拠省略≫によれば、被告人大井、同金の両名は、会社が組合員を出勤停止処分にしたことに抗議するため、昭和四二年三月一日正午すぎごろ、十数名の組合員とともに本社営業部事務所に赴き、被告人両名ら四、五名がカウンターの中にはいり、居合わせた営業課長横山邦雄の席近くに行き、同課長に処分の理由について問いただすとともに、処分に抗議し、その撤回を要求した。そのうちカウンターの外に居た組合員も中にはいり、権限外だとして回答を拒む横山に対し、口々に抗議をし始めたところ、同人がいきなり席を立って外に出ようとした。そこで被告人大井ら付近に居た組合員が、横山の前や左右に立ちふさがり、「回答もせずどこに行くのか」などと言って押しとどめようとしたが、同人はこれを押しのけてカウンター出入口のところまで来た。その時遅れてそこにやって来た切田明が、「返事はしたか、すぐ返事をしろ」「席に戻って話をしろ」と言って横山の前に立ちふさがったが、同人は「お前らに口出しされる必要はない」といって、足を踏んばって立ちふさがる切田を押しのけ、「金目のものを持っているから近寄るな」などと言いながらカウンターの外に居た大勢の組合員の間をかき分けるようにして事務所の外へ出たことが認められるが、本件の全証拠によっても、その際被告人らが一緒に居た組合員らと共同して横山に暴行を加えた事実を認めることはできない。

横山証言には、「席を立って出ようとした時、被告人の大井を含む二、三人の組合員が腕を前に組み、体や腕で前へ出ようとする私の胸を押した。何度もくり返えし押し戻された。カウンター内のラジエーターのところでも同じようなことを二、三回された」旨、また南証言には、「組合の山本が横山に抱きつくようなかっこうで阻止した。被告人の大井が横山の肩をつかんで引き戻そうとした」旨の各供述記載があるが、前記のとおり当時会社と組合は鋭い対立関係にあり、会社職制はいずれもしばしば組合員の激しい抗議行動の対象とされ、いきおい組合活動家に対し強い敵対感情を持っていたと認められるのであるが、当時横山は佐藤岩夫直属の営業課長であり、南はその下で係長(証言時も)を務めていたものであること、横山証言によれば、同人は公訴事実第五に関するものであるが、被告人ら組合員の行動が詳細かつ具体的に記載されているものとうかがわれる同人の昭和四二年二月八日付検察官調書について、「実際は誰が具体的にどういう行動をとったかは必ずしも正確ではない」と述べており、このことは同証人の誠実さに疑問を抱かせるものであること、南証言によれば、同人は証言の二日前に担当検察官に会い、事件当時作成された検察官調書添付の図面を示され、当時の状況について尋ねられており、証言がその影響を受けている疑いのあること(右検察官調書が特信性の認められないものであることは、すでに昭和四九年九月一〇日付の決定において説示したところである)、前掲各証拠によれば、本件の二、三日前後にも別の組合員の処分問題でほとんど同じような抗議行動が行なわれており、右各証言は両者の紛争場面を混同している危険があること、また前記認定のとおり横山は、前に立ちふさがったりして制止しようとする組合員を積極的に押しのけて外に出ているのであるから、同人の言う「体や腕で何度も押し戻された」というのも、同人の方が押すのを組合員が踏んばって動かないため押し戻されるような形になったというにすぎないとも考えられることなどの事情を考えれば、右横山、南の両証言を文字どおりに信用して被告人大井ら組合員が横山に暴行を加えた証拠とすることは出来ず、横山が外に出ようとするのを制止する過程で多少同人を押し戻すような行動があったとしても、本件紛争の原因が、その前日会社が、組合員の一人を同人が乗車勤務日に当っていた日に、当時組合が救済の申立をしていた地方労働委員会の審問に証人として出席するため、他の組合員に勤務を代ってもらったことをとらえ、「勤務中に職場を放棄した」として、一四日間の出勤停止処分にしたことにあるものとうかがわれること及びすでにみてきた本件の経過ならびに争議をめぐる諸事情を総合すれば、右の程度の行為をもってしては、未だ不法な有形力の行使というに値しないものというべきである。

七、公訴事実第七(被告人金、同年増)について

≪証拠省略≫によれば、昭和四二年三月一五日午前八時前ごろ、会社生野営業所内正門近くを歩いていた被告人年増の体に、山口弥市が運転する自動車のバックミラー付近が当った(この点について検察官は冒頭陳述において、山口の車が被告人年増の体にかすかに触れたと主張しており、山口証言には、「私の車のバックミラーはよく動くが、その時はあとで曲ったりしていなかったので大した当り方はなかった」との供述記載があるが、同じ証言の中で、その時同人の乗っていた車は同人の車ではなかったと述べているのであって、それ自体明らかに矛盾しており、野中証言によれば、山口の車が被告人年増に接触したあとバックミラーがゆがんでいたというのであるから、これに年増供述を併わせ考えれば、右山口証言は信用できず、ある程度の強さで当ったものと認められる)。ところが山口はそのままゆきすぎようとし、被告人年増に呼び止めてとがめられても、「そんなにきつく当ってない」などと言って謝ろうとしなかったため、怒った同被告人は山口を職制の前に連れて行って謝らせようと考え、「降りて謝れ」と言いながら車のドアに手をかけ、その時ドアを開けて車から降りた同人の右腕をつかんで同営業所タクシー部事務所の方へ引っぱろうとした。そこへ山口の車のうしろからついて来ていてその様子を見ていた野中が、「何だ何だ」と言いながら走って来て二人の間に割り込み、被告人年増の体をつかまえた。近くに居た神崎生野営業所長、斉藤係長ら職制やガードマンを含む非組合員七、八名もそこに集ってきて同被告人ら三名を取り囲み、互いに「やめんか」「離さんか」などと言いながらもみ合い状態になった。間もなくこのことを聞いた被告人金が駆け付け、「何さらすんや」と言いながら被告人年増をつかまえていた野中を勢よく同被告人から引き離し、同被告人から事情をきき、山口に向って謝罪を求めたが、同人は謝らずにその場を逃れようとしたため、被告人両名は、「謝らんかい」などと言いながら山口のあとを追って激しく詰めよった。一方野中らまわりに居た非組合員らは、逆に山口に詰めよる被告人らを制止しようとして、口々にわいわい言いながら一団となって移動したが、最後に被告人金が「謝ったらすむことやないか謝れ」と言いながら、山口の後頭部から首筋の付近を、被告人年増の方に押しやるように、少し強く押したところ、山口が前のめりになり、その額が、丁度靴紐を直すため中腰になっていた被告人年増の額にぶつかった。そのあと結局山口が一言同被告人に謝って紛争が終ったことが認められ、また右各証拠によれば、本件紛争の中で山口は二度にわたって転倒していること及び被告人両名がそれぞれ倒れた山口の上半身と足首を持って同人の体を持ち上げるという場面のあったことが認められるのであるが、紛争の始めごろ被告人年増が山口の手首を持って少し引っぱった行為及び紛争の最後のところで被告人金が「謝れ」と言って山口の後頭部付近を押した行為は、いずれも右に認定した紛争の原因、経過、被告人らの行為の動機、目的、その態様程度に照らし、未だ不法な有形力の行使とは断じ難く、山口が転倒したのは、被告人らが押したり引いたりしたためであるのか、まわりに居た非組合員らがそうしたためであるのか、あるいは被告人らが言うように、逃げようとした山口が何かにつまづいたためであるのか、その原因は本件の全証拠によっても明らかでなく、少なくとも公訴事実にあるように被告人らが山口の胸部を強打した結果であると認めるに足る証拠はない。また被告人らが、どういうつもりで山口の体を持ち上げたのか、その動機ないし理由は全く不明であり、転んだ山口を起そうとしたのが偶然そういう形になったとの被告人らの弁解はいささか不自然なきらいのあることを否定し難いが、野中証言によれば、被告人らが山口の体を持ち上げたのは一、二秒で、運んだ距離は約一米位であるというのであり、また同人自身検察官調書では「そっとおろした」と述べていることがうかがわれ、このことからすれば、持ち上げたといってもほんの瞬間的なことであり、同証言の「引きずるようにして運ばれ、頭からどさっと落ちた」との供述はにわかに信じ難く、山口自身被告人らに体を持ち上げられたことを全く記憶していないことなどを考えれば、これをもって被告人らが山口に暴行を加えたものとみることには疑問があるといわざるを得ない。他に被告人らが山口に対し公訴事実記載のごとき暴行を加えたことを認めるに足る証拠はない。

八、公訴事実第八(被告人金)について

≪証拠省略≫によれば、昭和四三年三月上旬ごろ、組合では、「乗車拒否をしない車、全自交大阪地連」と記載し、全自交のマークのはいったステッカーを、組合員の乗務する車の窓ガラスに張っていたが、会社はこれに対し、格別の指示ないし措置をとることなく黙認していた。同月九日ごろ組合では、当時前記刷新準備会を母体に結成されていた新商都交通労働組合(以下新労と略称する)に対し、新労組合員の乗務する車にも右のステッカーを張ることについて協力依頼の申入れをしたがこれを拒絶された。しかし交替勤務の関係で同じ車に組合、新労双方の組合員が乗務することもあるため、「新労の組合員がステッカーを張ってある車に乗務する場合はステッカーをはがさず、全自交大阪地連の表示部分にテープを張るなどして、その部分だけ隠して乗務してもらいたい」旨重ねて文書で協力を依頼し、この問題について組合間の話合いを申入れた。新労では執行委員会を開いてこれを協議したが、申入れを拒否し、新労の組合員が乗務する場合は、張ってある全自交のステッカーは必ずはがしたうえ出庫することを決めた。

同月一〇日午前八時三〇分前後ごろ、被告人金は、会社生野営業所タクシー部事務所横の東出入口を出た近くの路上で、新労の執行委員中島純義と千田健二が、当日千田が乗務する車に張ってあった全自交のステッカーをぬれぞうきんで湿らせてはがそうとしているのを見て、同人らに対し、ステッカーはそのままにして全自交大阪地連の表示部分だけテープで隠して出庫してもらいたい旨申入れたが、中島らはこれを拒否してはがし続けた。そこで被告人はタクシー部事務所にはいり、そこに居た係長らに中島らの行為をやめさせるよう要求していた。その間に中島は事務所から金属製のヘラを持ち出し、これでステッカーをはがし始めた。事務所を出た被告人は、この様子を見てすぐ中島に近づき、「係長にも言うてある、事務所で話をきけや」などと言ってステッカーをはがすのをやめさせようとしたが、同人はこれを無視してはがし続けたため、被告人は「やめとかんかい」と怒鳴りつけながら同人の肩口付近を手で押したところ、同人は一、二歩うしろにさがり、右手に持ったヘラをぱっと構え、これで被告人に突きかかるような姿勢をとって被告人の方に向ってきた。とっさに被告人は危険を感じ「何さらすんや」と言いながらヘラを持った中島の手を払いのけるように左手をふるったところ、その手が中島の右ほほから下口唇付近に当ったことが認められる。

ところで本件公訴事実は、被告人が中島の顔面を二回殴ったというのであり、中島証言には「右ほほ部、続いて口付近と二回殴られた」旨、医師三木正之作成の診断書には「右ほほ部及び下口唇打撲傷」との記載があるので、先づこの点について検討する。

前掲各証拠によれば、中島は、当時組合と鋭く対立していた新労の執行委員で、その副委員長に選出されたこともある活動家であり、そのため組合員からしばしば「裏切り者」などと激しい個人攻撃を受けていたこともあって、組合や組合員に対しては強い反感を抱いていたものと認められ、その証言の信用性については、前記会社の職制らのそれと同様とりわけ慎重に吟味する必要があるものと考えられるところ、同証言によれば、「傷は一〇日間ほど痛み、一週間ぐらい勤務を休んだ」というのであるが、前記診断書によれば、傷は「約七日間の通院加療を要する打撲傷」となっており、中島証言、千田証言によっても、「下口唇の内側から血がにじんでいた。」程度であったと認められる。「約七日間の通院加療」というのも、純粋医学的にはそのとおりであるとしても、現に中島がその時かぎりであとは何ら治療を受けていないように、手で殴られて下口唇から血がにじんだ程度の傷で一週間も通院治療を受ける者はまずいないと考えるのが常識であり、また、ほほや口唇部はその内部に歯があるため、強く殴られれば単に打撲傷にとどまらずその内側に挫創を生じ易い部位と考えられ、中島証言によれば、同人が受傷直後医師の診察を受けたのは、治療を受けるためと言うより、もっぱら証拠保全のための診断書を得るためであったと認められるのであるから、もし口腔内等に挫創等が生じておれば当然そのことも診断書に記載されていなければならないはずであるのに、右診断書には、右ほほ及び下口唇、打撲傷とあるのみでそのような記載がないことなどを考えれば、中島の「一〇日間ぐらい痛み、一週間も勤務を休んだ」という証言は、被害を相当誇張して述べている疑いをぬぐい難く、また右診断書にある「右ほほ部及び下口唇」というのが、右ほほ、下口唇のうちのどの部分であるのか、そこには何らかの外部所見があったのかどうか、一回の打撃によって生じたとして不合理な点があったのかどうかといった点はいずれも明らかでなく、一回の打撃であっても、同時に右ほほと下口唇に打撲傷を与えることも、その部位いかんによっては充分あり得ることであると考えられ、診断書の記載は必ずしも、打撃は一回だけであるとの被告人の供述や三浦証言と矛盾するものでないこと、加えて殴られた原因及び経過についての中島証言は、≪証拠省略≫と対比して極めて不自然であることなどの諸事情を考えれば、前記中島証言は信用し難く、他に被告人が二回中島の顔面を殴ったと認めるに足る証拠はない。

そこで次に右に認定したところに従い、被告人の所為が傷害罪に該当する違法な行為であるかどうかについて検討する。

ヘラを持った中島の手を払いのけようとしたところ、それが偶然同人の顔に当ったという被告人の供述は、いささか不自然なきらいがないではないが、一面、両者の身長にかなりの差がある(中島は身長一メートル五七センチメートルの小男であるのに対し、被告人は平均より高い)ことを考慮すると、被告人のいうところも首肯できないわけではなく、また、下を向いて歩いているところをいきなり殴られたという中島証言の信用し難いものであることは右に見たとおりであり、他に被告人の右弁解を排斥し、被告人が故意に中島の顔面を殴ったものであると認めるに足る適格な証拠もなく、いずれにしても、まさに刃物同様のヘラを構え、突きかかるような態度で被告人に向って来た中島の行為に対し、危険を感じ身をまもるため、とっさの反撃行為としてとられた行動であることをも併わせ考えれば、被告人の右弁解も、冷静な第三者の判断からはいささか不自然なきらいがあるというだけで、一概にこれを虚言として否定することはできないものというべきである。(仮りに、偶然当ったのではなく、顔を殴ったのであったとしても、その場合でも以下に述べるところは妥当し、正当防衛が成立する余地はあるものと考えられる。)

中島及び千田の所属する新労は、全自交に所属する被告人らの組合とは強い対立関係にあったのであるから、「乗車拒否をしない車」という表示に異論はないはずであるからといって、新労の組合員である千田が乗務する際に、全自交大阪地連という表示や全自交のマークのついたステッカーを、その部分だけを隠してステッカーははがすなという被告人らの要求は、いささか身勝手な要求であるとのそしりを免れないが、組合から新労に対し正式に文書で協力を依頼し、話合いを申入れた直後のことであること、そして本件で問題になっていた車は、週のうち六日間は全自交組合員二人が交替で乗務し、千田が乗務するのは、いわゆるスペア回りとして週に一日だけであることをも考えれば、前記認定の経過から「やめとかんかい」と言いながら、被告人らの要求に全く耳を貸そうとせずステッカーをはがし続ける中島の肩口付近を手で押した被告人の行為は、その経過、態様からみて格別違法視するほどのものとも言えず、これに対していきなり刃物同様のヘラを構えて突きかかるような態度で被告人に向って来た中島の行為は、それが真実突き刺すまでの意図ではなく、脅しにすぎなかったとしても、被告人の身体に対する急迫不正の侵害ということができ、これから自己の身体を防衛するため、とっさにヘラを持った中島の手を払いのけようとした被告人の行為は、とっさの反撃行為のことであるから、顔面を殴って打撲傷を与えるような結果を招かないような配慮を欠いたからといって防衛行為として相当性の範囲を逸脱したものとは言えない。結局被告人の行為は、中島の急迫不正の侵害から自己の身体を防衛するためやむを得ずなされた正当防衛行為と認めるのが相当である。

九、以上の次第で、本件公訴事実中第一及び第四ないし第七の各公訴事実はいずれも犯罪の証明がなく、第二、第三の各公訴事実は正当な争議行為として、第八の公訴事実は正当防衛行為としていずれも違法性を欠いて罪とならないので、結局被告人ら全員に対し、刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をする。

(裁判長裁判官 浅野芳朗 裁判官 西田元彦 裁判官山崎恒は職務代行として出張中のため署名押印できない。裁判長裁判官 浅野芳朗)

<以下省略>

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